大判例

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大阪高等裁判所 昭和61年(う)746号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年二月に処する。

原審における未決勾留日数中四〇日を右の刑に算入する。

押収してある文化包丁一本(当裁判所昭和六一年押第三〇〇号の二)を没収する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人中山厳雄作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意一及び二について

論旨は、原判決が、被告人はCに対し同人が死亡するに至るかも知れないことを認識しながらあえてその胸部を包丁で突き刺し、また、Dに対し右同様の認識のもとにその腹部めがけて包丁を突き出して突き刺そうとしたとの事実を認定して、いずれも未必の殺意を肯定している点につき、被告人は相手の胸部ないし腹部を狙つて突き刺したのでなく、右Cについては、同人がビール瓶を振り上げて被告人に殴りかかろうとした際、被告人の振り廻していた包丁に自ら突き刺さつたものであり、右Dについては、同人が被告人から包丁を取り上げようとして誤つてこれを両手で握つたところを被告人がこれに抵抗して引いた際受傷したにすぎないのであつて、いずれも殺意を認め得ないのであるから、原判決には影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というものである。

そこで、所論にかんがみ、記録を精査し、当審における事実取調の結果をも併せて検討したうえ、次のとおり判断する。

被告人とC、D兄弟がE酒店内で口論となつてから右兄弟が被告人によつて原判示のような傷害を負わされるまでの間の右酒店前路上における右三名の挙動を関係証拠によると、被告人が、右兄弟から挑まれた喧嘩に応ずべく右路上に出る際、咄嗟に右酒店流し台にあつた文化包丁(刃体の長さ約一六センチメートルで先端の尖つたもの)を右手に持ち出し、他方、右兄弟はこれを見て同店から持ち出したビールの空瓶をそれぞれ手にして、右三名が同店前路上で対峙することになつたが、被告人の左前方にいたDが被告人の背後に廻る気配を示したため、被告人がこれを阻止すべく右包丁を同人の方向に撥して、牽制したところ、これを、Dが攻撃されたものとみたCがビール瓶を振り上げて右前方から被告人に殴りかかり、被告人は、Cの右攻撃に気づいて急遽同人の方に向き直り、頭を下げつつこの攻撃を防ぐ体勢で同人に前記包丁を握つた右手を突き出し、これが同人の右前胸部に突き刺さつて原判示の傷害を負わせることになつたこと、その直後、被告人が、後頭部を殴打される等して左手と両膝を路上につき、Cに背後からのしかかられる格好となり、包丁を取り上げようとする兄弟に右腕を掴まれる等したこともあつたものの、必死に右腕を振るつてこれに抵抗した際、Dは、被告人の右振り廻す包丁の刃体部を誤つて両手で握つたため原判示の傷害を負うことになつた各事実が認められる。右認定に反し、Dの司法警察員に対する供述調書中、被告人が同人に向つて包丁を突き刺した旨の供述部分並びに同人の検察官に対する供述調書中、被告人が同人の腹部辺りを突き刺してきた旨の供述部分、及び鄭徳豪の司法巡査に対する供述調書中の右Dの供述に沿う供述部分は後に判断のとおりいずれも信用できず、更に原審証人Cの供述及び同人の検察官に対する供述調書中、同人が素手で被告人に立ち向つていたとの供述部分も信用できず、他に右認定に反する証拠はない。

そこで、右認定事実を前提にして、さらに関係証拠に照らして、Cに対する殺意を認め得るか否かについて検討するに、Fの司法警察員に対する供述調書によると、Cの原判示前胸部刺創の傷害は、前記被告人の突き出した包丁が、Cの前胸部正中から同右外側にかけて皮下一ないし三センチメートルの深さで長さ約一四センチメートルにわたつて大胸筋内を貫通したものではあるが、肋骨には何ら損傷がなく、かつ胸腔内にも達していないものであることが認められ、また、原審証人Cの供述及び同人の検察官に対する供述調書によると、同人は、右受傷直前被告人に対し攻撃を加えようとして被告人に向つて前進している事実が認められるところ、その際、被告人が包丁を突き出すのを認めてこれを避けるべく後退したとか身をそらしたとかいう事実は認められないのである。右Cの傷害の状況、同人の受傷直前の動き及び前記認定の被告人がCの攻撃に対し、防禦の体勢で頭を下げつつ包丁を突き出していたと認められる事実を総合すると、Cの前胸部に刺入された包丁は、同人の胸面に垂直ないしそれに近い角度で突き出されたけれども同人及び被告人双方の動きの関係で同人の胸面に達する前にその方向がずれてその胸面にほぼ並行して刺入されたとか、あるいは、右のような角度で同人の胸部に刺入したけれどもその直後に右同様の理由で方向がずれて胸面にほぼ並行して刺通したと推認することまではできないというべきであり、むしろ、右包丁はもともとCの胸面に並行ないしそれに近い角度で突き出されそのまま刺通した可能性を否定することはできない。そして、右包丁の突き出された角度とその際の被告人の姿勢を考慮すると、Cに傷害を与えた被告人の行為について、所論が主張し、被告人が原審及び当審公判廷で供述するように、被告人が振り回していた包丁にCが自ら突き刺つたものとは到底いえないけれども、また、原判決のように、被告人がCの胸部をめがけて突き刺したとみるのも疑問で、相手の攻撃に対して頭を下げつつ、ねらいの定まらぬ被告人の突き出した包丁が、前進してきたCの胸部正中から右前胸部にかけて貫通したのではないかとの疑問を払拭できないのである。そうすると、被告人が人を殺害するに足る包丁を自ら持ち出し、これで相手の胸部をめがけて突き刺したとの事実から被告人に未必の殺意を推認できるとし、これに沿う被告人の捜査段階における各供述調書の記載も信用するに足るとした原判決の判断は、直ちに肯認できるものとはいえない。そこで、被告人が、前記認定のように、Cの攻撃に対して頭を下げつつ包丁を突き出した場合、相互の位置関係からみて、被告人には、右包丁がCの上半身のいずれかの部位に何らかの角度で突き刺さるものとの認識があつたにすぎないというべきであるから、更に進んで、右のような機会に右のような姿勢と認識で、それを突き出した場合、右認識に加えてCを死亡させる可能性をも認識し、認容していたと認め得る状況にあつたか否かについて検討するに、被告人が自ら持ち出した包丁は、その形状から使用方法によつては人を殺害するに足りるものと認められ、一般に、人体の上半身は、頸部、胸部、腹部等その傷害が生命に影響を及ぼす可能性の大きい枢要部を含むから、これに対して右包丁を突き刺す行為は、それ自体相手を死亡させる可能性が大きく、こと更胸部を狙つたとまではいえない場合であつても、その行為自体から未必の殺意を認め得る場合が多いことは否めないが、本件においては、前述のように、被告人が包丁を突き出した機会、姿勢、角度等より考えて、被告人がCの特定部位を積極的に狙つていたとまでは到底認められず、せいぜい上半身のいずれかの部位に突き刺さるだろうとの認識にすぎなかつたことを否定し難いのであつて、被告人の右行動から直ちに、被告人がCを死亡させる可能性を認識、認容していたと推認するのは相当でなく、更に、本件喧嘩の経緯に即しつつ被告人の当時の心理状態を検討しなければ正当な結論には到達し得ないと言わねばならないが、被告人がC兄弟から挑発された喧嘩に応じようとして咄嗟に包丁を持ち出したことは先に認定のとおりであり、それに先立つ飲酒時の状況を考慮してもその行動に予め意欲された目的が伴つていたことは認め難いし、被告人が包丁を持ち出してから路上で互いに対峙するまでの間、種々ためらいの想念にとらわれたことは被告人の司法警察員に対する昭和六〇年一〇月二三日付供述調書に記載のとおりであり、被告人がCの攻撃に対して頭を下げつつこれを防ぐ体勢で包丁を突き出していたことも先に認定のとおりで、被告人の行動は、いずれもそれに先立つC及びDの行動に触発され、これに対応して受動的になされたものであるから、これに伴う被告人の心理状態もまた受動的で、とりわけ、被告人がCに対して包丁を突き出す直接のきつかけとなつたCの攻撃が、ビール瓶による殴打であつて死亡の結果を生じる可能性の比較的低いものであつただけに、これに対応した被告人の本件行動とその際の心理状態も、それ程緊迫していたものとは認められないのであつて、以上のような行動の態様と心理状態を考慮すると、被告人がCの上半身のいずれかの部位に突き刺さるであろうとの認識のもとに同人に向けて包丁を突き出したからといつて、直ちに、被告人がCを死亡させる可能性を認識、認容していたものとするには、本件喧嘩の経緯からなお相当程度疑問の余地があり、結局、右認定判断からすれば、本件の場合被告人のCに対する未必の殺意を肯認するのは相当でないというべきである。なお、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書には、Cに対する未必の殺意を認める趣旨の記載が繰り返しなされているけれども、右各記載は、被告人の原審公判廷における「捜査官からストライクゾーンを刺しているといつた趣旨のことを言われた」との供述からも窺えるように、被告人の突き出した包丁がCの胸部中央に刺入されている事実を強調して未必の殺意を否定し難いとする捜査官の説得、追及に抗し得なくなつた被告人が、捜査官の誘導に応じて安易に供述したことの結果とおもわれ、そのまま信用することはできず、また、司法警察員作成の昭和六〇年一〇月三〇日付実況見分調書の記載及び添付の写真も、右供述内容を現場において再現したにすぎないものであるから、右同様の理由で信用できない。

次に、Dに対する殺意の点について検討してみると、Dの傷害は、同人が被告人から包丁を取り上げようとしてこれを両手で握つたために生じたもので、前記Cの受傷に引き続いて生じたものであることが証拠上明らかであるが、この間被告人の心理状態に前後変化を生じたことを窺わせる事情は認められないうえ、D受傷の直前にはC兄弟の攻撃によつて先に認定のように、被告人が両膝と左手を路面についてしまつていたと認められる事実関係からすると、被告人はCに対した時に比べて格段に攻撃を加えにくい体勢にあつたことも明らかで、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書にも、被告人がDに攻撃を加えたとの記載はなく、包丁を取られまいとして必死に振り回して抵抗したとあるのみであるから、Dに対する未必の殺意を推認することは、Cに対する場合に比べてより困難である。もつとも、Dの司法警察員に対する供述調書には、被告人が自分に向かつて突きかかつて来た旨の、検察官に対する供述調書には、被告人が自分に向かつて腹のあたりを突いてきたがベルトのバックルに当つて助かつた旨の各記載があるけれども、先に認定したような当時の被告人の体勢からすると、そのような攻撃が可能であつたかどうか甚だ疑わしく、右各記載のうち前者は具体性に欠け、後者は検察官による取調段階において新たになされたものであるところ、司法警察員作成の被疑者Dの写真撮影報告書添付の写真によつてもこれを裏付けるものがなく、共に信用できないものがある。また、Gの司法巡査に対する供述調書には、Dが、医師に対して、相手が刺しに来たのでその包丁を握つて怪我をした旨述べたとの記載があるが、これも具体性に欠けるうえ、前示の理由により措信できない。

以上のとおり、被告人がC及びDに対して殺意を有したものとは認め難いのであるから、これをいずれも肯定した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があるといわねばならず、各論旨はいずれも理由がある。

そこで、量刑不当の控訴趣意に対する判断をするまでもなく、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を全部破棄し、同法四〇〇条但書により被告事件について更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六〇年一〇月一五日午後七時四〇分頃から大阪市平野区西脇四丁目三番一六号所在のE酒店において飲酒していたが、折から同店で飲酒していたD(当時三二歳以下Dという。)、C(当時三二歳。以下Cという。)の両名が、被告人の飲み友達であるHをからかつたり、大声を出すなど、柄の悪い態度で飲酒していたので、これに気分を害し、時折両名を睨みつけたりしていたところ、同日午後八時五〇分頃、家に帰るため、飲食代金を払おうとして、「代金は俺が持つ」と言う右Hと互いに伝票を取り合つていた際、、右Cが「おい、こらつ判つとんか、ヤキ入れたろか。」などと耳元で怒鳴つたので、これを自分に対する挑戦であると受け取つて、「こら、誰にぬかしとんねん。一人でやるんかい、二人でやるんかい。」と怒鳴り返したことから右C及びDと口論となり、「表へ出え」と言われて店外での喧嘩を挑まれるや、咄嗟に、同店内の流し台にあつた刃体の長さ約一五・八センチメートルの文化包丁(昭和六一年押第三〇〇号の二)を持つて同店を先に出、それぞれビール瓶を手にして同店を出た右両名と同店前付近路上で渡り合ううち、右Cの胸部を右包丁で突き刺し、同人に対し加療約二週間を要する前胸部刺創の傷害を負わせ、また、右Dが右包丁を取り上げようとしたのに抵抗して右包丁を振り回したため、同人をして両手で右包丁の刃の部分を握るに至らしめ、同人に対し、加療約二週間を要する左手掌及び右第一指切創の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示各所為は、いずれも刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、いずれも所定刑中懲役刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により犯情の重いCに対する罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で処断することとし、量刑事情として、本件は、被告人が、挑発された喧嘩とはいいながら、鋭利な包丁を持ち出して相手方二人と渡り合つて傷害を負わせた事案で、うち一人に対する傷害は死亡の可能性も皆無ではなかつたという危険なものであつて、その刑責は重大であること、被告人は被害者らに金五〇万円を支払つてその宥恕を得ていること、被告人は最近一〇年近くの間真面目に働いてきた者であることなどを考慮したうえ、被告人を懲役一年二月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中四〇日を右刑に算入し、押収してある文化包丁一本(当裁判所昭和六一年押第三〇〇号の二)は、判示各傷害の用に供した物で、何人の所有にも属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、原審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被害人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山中孝茂 裁判官野間洋之助 裁判官島 敏男)

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